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バイマンスリーワーズBimonthly Words

葉っぱのフレディ

2017年11月

98年の初版以来、ミリオンセラーとなった『葉っぱのフレディ~いのちの旅~』
アメリカの哲学者 レオ・バスカーリアが生涯で一冊だけ書いた絵本です。
春に生まれ、冬に散っていく葉っぱの一生にどんな意味があるのか。
そして、私たちはどこから来て、いったいどこへ行くのか…。

葉っぱの一生から死生観と命の循環を考える、禅の公案に近いお話です。
そう、作者のバスカーリアは日本の「禅」に傾倒していたのです。
米コロンビア大で禅の大家・鈴木大拙の講義を受けたのち、
日本にもやってきて鎌倉の禅寺で修行もしています。

東洋思想、特に「禅」を探究した世界的仏教哲学者 鈴木大拙。
禅に関する著作を英語で著し、日本の禅文化を世界に発信しました。
自ら「世界人としての日本人」であり、「世界は我が家である」として、
東洋的な見方で西洋の考え方を補完することにより、世界平和に尽くしました。

大拙の活動は企業経営者の心もとらえました。
「死んだら鈴木大拙先生のそばに埋めてくれ」
と、出光興産の創業者 出光佐三は言い残し、
鎌倉の東慶寺で薫陶を受けた大拙のお墓の横に眠っています。

米国ではスティーブ・ジョブズなども「禅」に傾倒しましたが、
それも大拙の活動が端緒になった、といえるでしょう。
多くの経営者が「禅」にひかれるのはなぜなのか?

禅譲は 人生を終えること以上に勇気がいる

経営者が事業の発展に成功し、みごとな会社を築き上げても、
経営者としての評価は100点満点の50点にしかなりません。
残る50点は、将来においても存続し発展できる会社になるために、
後継者を選び、育て、スムーズにバトンタッチすることで評価されます。

中小企業における経営のバトンタッチは難しい。
バトンを渡しても受け取ろうとしない後継者がいます。
自信が持てず、トップを引き受けることに迷いがあるのか、
いや、現社長の下でのんびりと甘えているだけかも知れません。

一方、後継者にバトンを渡したはずだが、それを離さない社長もいます。
社長から会長になったが実態は以前のまま、というケースもある。
後継者の実力は概ね合格ラインに達しているにもかかわらず、
経営のバトンが恋しいのか、最終的な権限は譲りません。

もともと「禅」という語には、位を譲る意味があるらしく、
「禅譲」とは、天子が平和裏に徳のある者に地位を譲ることをいう。

日本には禅譲を実践する「葉っぱのフレディ」がいます。
正月にお飾りとして用いる「ゆずり葉(楪)」がそれで、
若葉が芽生えるために、古い葉が落ちる(譲る)特性を持つ。
親が子を育て、家が代々続いていく縁起の良い木とされています。

ところが、長期政権の中小企業経営者にとって経営は人生のすべてです。
ですから「禅譲」は、人生を終えること以上に勇気がいるのです。

人生の幸福は老後にある

「禅」では、深い死生観の重要性を説いています。
それは人生のゴールをどのように見つめ、どう生きるかという問い。

禅宗の僧侶 至道無難(しどうむなん) がこんな歌を残しています。
~ 生きながら 死人となりて なり果てて 思いのままにする わざぞよき ~
我(が)を捨て、私欲を捨てると、この世に怖いものがなくなってしまう。
ならば、やることなすことが自由自在にできるだろう。

「生きながら 死人となる」は、トップが権限を譲ることに重なります。
経営者が高みに昇り詰めたあとは、降りていくしかありません。
しかし、これまでの経営はしがらみの中での仕事が多く、
本当にやりたいことは自由にさせてもらえなかった。

だからこそ、人生を下る時にできることがある。
めぐり巡って、後進の人たちのためになることをしよう。
自分に何ができるだろう、あらたな自分の役割を発見したい…。

出光佐三は「人間の幸福は老後にある」と語りました。
「老後の一時間、一日は実に大事だ。その大事な一日を、
『ああ、いいことをしたな』と思って暮らすかどうかが、
人生の幸不幸の決まるところだ」

今は若き後継経営者も、いつかはトップの座を譲ります。
トップになったその日から、晩節をけがさぬよう、
この世において本当にやりたいことを探求し、
引き際のリーダーシップを磨いておきたい。

「経営者は一生修行」と覚悟をすれば 楽になる

経営のバトンタッチ問題の半分は、後継者の側に責任があります。
いつまでも自信が持てず、漠然とした不安を抱えているなら、
一日も早く経営の技を磨き、自分の心を鍛えることです。
ならば不安の正体が、自分の中にあることがわかるでしょう。

鈴木大拙は「禅とは信仰ではなく、修行である」としました。
たしかに禅には、信仰の対象として崇める神のようなものはない。
問題が山積する中小企業の経営を引き受けるということは、
「禅」の仏門に入って修行をすることと同じ価値があります。

「思うようにさせてもらえない…」と考えるとストレスになり、
先代社長を否定し、時には憎しみにまで発展してしまう。
ところが「経営は修行である」と考えるならば、
この試練が自分を鍛えてくれる、と納得できるでしょう。

禅に関心を抱く経営者は、総じて自分に厳しい。
自分を鍛え、修行をする場として経営をとらえています。
「経営者は一生修行」と覚悟をすれば、心が楽になるのです。

めまぐるしく動勢が変化した衆院選でしたが、
本丸の憲法改正に向かう体制の継続となりました。
鈴木大拙の真の願いは「禅」を通じた世界平和でした。
平和な社会が禅の教えの根本にあることに変わりはありません。

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