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バイマンスリーワーズBimonthly Words

他力の風が吹いている

1999年05月

手入れをせずに守(も)りをする

「庭づくりとは、野の声を聞くことや」

京都の広沢池の近くで造園業を営む佐野藤右衛門さんの口癖です。

いま、樹木や草花を通して自然とのふれあいを求める人が増えていますが、土にこだわり続ける藤右衛門さんの言葉には長年この道を貫いてきたプロとしての奥行きを感じます。

藤右衛門さんは1928年生まれの71歳。1832年創業の植藤造園の16代目です。祖父の代から全国の桜を見て回りその世話をするようになったとのことです。また、パリのユネスコ本部の日本庭園を手がけるなど世界的にも活躍し、その業績でユネスコからピカソ・メダルも贈られています。

 

藤右衛門さんがいう「野の声を聞くこと」とは、その土地の風土を知ることだそうです。

「なじみのない土地で仕事をする時、わしは必ず地元の職人さんに手伝うてもらう。そうせな、気象条件とか土地の様子とかは絶対わからへん。庭の形はできるのやけど、木が育たへんのや」

と言います。庭としての体裁を整えることよりも、そこに生きる植物が育つようにすることが庭づくりでもっとも大切だということなのでしょう。

 

「つくった庭というのはずっとみてやらなあきませんわ。皆さんはこれを手入れするといいますな。しかし手入れをするからあきまへんのや。守りをせなあきまへんのやわ」

散髪のように、その時だけ形を整えるのが手入れで、守りは相手の性格を知り、先まで見通して育てていくことだと言います。

たとえば素人の失敗例でよくあるのが、夏に日が照ったからといって水ばっかりやる。そして、様子がおかしくなったら肥料ばっかりやる。結局、根腐れしてしまう、という具合です。相手のことを考えずに自分の都合ばかり押し付けるから駄目になるのです。

たとえば桜の木は四方に張った枝先の直下まで根を伸ばし、その根っこの先端から栄養分を吸っています。そこで根元にだけ栄養分をやると木が楽をして根を張ろうとせず、上にばかり伸びる頭でっかちな桜になって、突然倒れてしまうのだそうです。だから、桜をりするには最初の接ぎ木のところではそれなりの手間がかかるけれども、後は放っておけばいいそうです。桜は湿気を嫌うとか、枝を切らないようにするとか基本的なことさえ守っていれば、あとは家族同然に毎日見てやれば変化がすぐにわかるので手遅れにならないわけです。

「自力」の限界を知る

藤右衛門さんがなじみのない土地で仕事をする時に地元の職人さんに手伝ってもらうのは「他人の力」の必要性を感じての自然な行動です。そこに「俺の力でやってみせる!」という力みはありません。また、最初に手間をかけても後は放っておけばいいという考え方も、単に放ったらかしにしているのでなく、太陽や雨や土という自分以外の自然の力に委ねているように思われます。そうすれば桜は自力で根を張って成長すると信じているのでしょう。

 

このように考えると自分の力と自分以外の力とのバランスを図りながら進められるかどうかが、物事の成否を分ける大きなポイントであるように思われます。

たとえば、魚つりでは「もどり」のない小さな釣り針でも、魚の引く力とのバランスをうまくとればはずれません。魚が逃げないのは魚が引っ張る力を利用しているからで、無理に力で釣り上げようとするとかえって逃がしてしまいます。

岩手県出身で柔道の神様といわれた三船久蔵十段の技に相手の体に触れずに倒す「空気投げ」というのがありました。相手の力をそのまま技に転化させ、相手が自分から倒れていくという神技です。

ボクシングのカウンターパンチも相手が打ってくる力を利用して打ち返す技で、うまくヒットすればその威力は通常の倍以上になるといいます。

勝負の世界では自分から技をかける「自力」よりも、相手が仕掛けてくる「他力」をうまく利用することが勝利に結びつくようです。

 

いま自分以外の力、つまり「他力」のパワーを感じて生きていこうという動きが、五木寛之氏の著書「他力」によって静かなブームになっています。

「他力」と言えば、私たちは「他力本願」という言葉をすぐに思い浮かべます。これは自分以外の人の力を求め、本人は何もしないとか、あなた任せ、他人任せといった意味で使っているのが実状です。

ところが私達一般の日本人は何百年ものあいだ全く間違った意味で使ってきたようです。

猿猫論争の教訓

五木氏は「他力」の意味をヨットにたとえて解説しています。

エンジンのついていないヨットは、まったくの無風状態であれば走ることができません。少しでも風があれば何とかなるでしょうが、そよとも吹かなければお手上げです。ヨットの上でどんなに頑張っても無駄です。他力の風が吹かなければ、私たちの日常も本当は思うとおりにはいかないものです。

他力とは、目に見えない何か大きな力がどこかで自分の生き方を支えているという考え方です。自分一人の力でやったと考えることは浅はかで、自分以外の目に見えない大きな力が自分の運命に関わり合いを持っている、自分以外の他者が自分という存在を支えてくれていると謙虚に受け止めることが「他力」を知ることだといいます。

 

自力と他力の力関係を説いたものに「猿猫論争」と言われるものがあります。

猿の子供は自分の身に危険が迫った時、母親の背中や腹にしっかりとしがみついて母親に運んでもらって難を逃れます。これが「自力」です。一見すると子猿の努力のみで事がすすんでいるようですが、母猿は常に子猿を気遣い、運ぶ際には振り落とさないように万全の注意を払って移動します。じつはここに「他力」が存在しているというのです。

一方、子猫に危険が迫った時は親猫がこれをくわえて運びます。この時、子猫は一見母猫のなすがままに引きずられていて、「あなた任せ」のような状態になります。これが「他力」です。ところが子猫は全身の力を抜いて母親に一切を預けるという努力をしており、もし子猫が一瞬でも力んで身体に無駄な力が入ったら、母親の鋭い牙で子猫の首筋を食い破ってしまうことになるでしょう。このように子猫は何もしないように見えても母猫を信じきってすべてを預けるという努力を行っています。これこそ「自力」だというのです。

猿猫論争は自力と他力の意味をうまく表現しています。これらのどちらが大切だとか正しいかという議論をするよりも、「中道(どちらにも偏らない道)的解決法」を勧めているのが猿猫論争の教訓です。

喜ばしくない他力との関係

「人」という文字は二本の棒が支えあってできているといわれます。しかし、よく見ると上の棒が下の棒の上にもたれてサボっているように見えます。支え合っているようには見えません。そこで、「いつも下ではしんどいからいっぺんどいてくれ!」と下の棒が上の棒に頼みます。すると、「わかった。じゃあ、どくよ」と上の棒が離れたのはよかったのですが、下の棒はバッタリ倒れてしまいました。もちろん上の棒も倒れてしまいます。自分一人がしんどいと思っていた下の棒は、実はもたれかかっていた上の棒のおかげで立つことができていたのです。言い換えれば、「喜ばしくない他力」が自分を支えてくれていたのです。

いかがでしょう、社内を眺めると成績が上がらない、危機感がない、ミスばかり起こすといった社員がいるかも知れません。実力はあっても行動や言動に問題を残している幹部社員もいるでしょう。

これは「喜ばしくない他力」です。ところがこの力はあなたが暴走や判断ミスをしないように彼らが誘導してくれているのかも知れません。

それ以外にも売上不振や金融不安という喜ばしくない他力があなたの会社にかかります。何よりも私達が住む日本全体に平成大不況という喜ばしくない他力が働いています。これも過去の行き過ぎを是正し、好ましい状態になるように…という願いを込めた他力であると言えます。これは喜ばしくないけれども、あなたにこの力を糧にして何とかして下さいという現象なのです。

 

この世界には私達の考えや知恵を超えた、どうすることもできない事態が起こります。特に昨今ではバブル期と違ってそのように感じる人が多いでしょう。

その一方で、目に見えない宇宙の力とでもいえる、大きなエネルギーが見えない風のように流れていることを、ふっと感じることがあります。このような感覚は誰にでも経験のあることではないでしょうか。これこそ「自力」を奮い立たせるための「他力の風」なのです。

ヨットはたとえ逆風であっても技術があれば自分の思う方向へ走らせることができます。

いまあなたの周りには静かながらも「他力の風」が吹いています。あなたが「よし、やろう」という気持ちになるような風です。

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