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バイマンスリーワーズBimonthly Words

裏を見せ 表を見せて 散るもみじ

1998年11月

プロ球界は人材不足?

「私のような年寄りに指名がかかるのは球界にあまりにも人材が不足していることの表れですよ」

弱小だったヤクルト球団を日本一のチームにまで育て上げ、潔く勇退したと思ったらあの阪神タイガースの監督を引き受けることになった野村克也氏の言葉です。ID野球が浸透し、その科学性も飛躍的に高まって選手達の技術や体力も大リーガーでも通用するレベルにまでなっているにもかかわらず、人材不足だと言い切るのです。野村氏の言うそれは指導する側の人材のことで、こうやって打てとか、こう投げてはだめといった勝つための指導はするけれど、野球を通じて人間形成を促すような精神面の指導をする人材がいないと言うのです。

確かにその通りかもしれません。マスコミが発達し、その関係から野球そのものが金儲けの道具になりました。プロ野球は勝負の世界ですからやはり勝たねばなりません。そして、勝たなければファンがつかないのでとにかく勝つための選手起用や采配が行われていきます。その結果、野球を通じて味わいのある生き方をしている選手や、粋な計らいをしてくれる球団が少なくなっているのも事実です。

王や長嶋が金田や村山といった名投手と対戦する時はいつも粋なパフォーマンスがあり、勝ち負けよりも名勝負を楽しむという味わいがありました。相撲界でも昔のVTRを観ると、勝った横綱はたいてい土の付いた力士に救い手を出し、負けた方もそれに従っていました。何よりもその二人の表情がじつに清々しく、そこには勝ち方、負け方の美学というものがあったように思います。勝つことが最優先されてしまった近年はそんな姿もあまり見られなくなりました。

経済社会こそ人材不足

どうも野村新監督の弁は今の日本の経済社会をそのまま表現しているような気がしてなりません。

製造技術はめまぐるしく進歩し、その戦略は国内に留まらず世界中の国々にまで広がり、企業規模と豊富な資金量は、バブル崩壊後は大きく後退しているものの世界のトップクラスにまでなりました。ところが今、量的な拡大と、シェアを奪うことによる利益確保で拡大を続けてきた企業の経営姿勢に対して警鐘が鳴らされています。地球環境はとめどもなく汚染されて私達の身体をんでいっています。新商品の開発ひとつをとっても本来のそれは顧客ニーズを満たすためにあるはずのものが、競合に負けないがために展開されていきました。その結果、技術は進歩したものの無駄な機能や不要な物が氾濫してしまいました。

これらはすべて経営者を中心とする指導者の方針に沿って行われてきました。

これまでの高度成長経済を指導してきた経営者の方針が間違っていたとは思いません。これらは過去のことであり、問題はこれからです。グローバルに様変わりしていく経営環境に沿って的確な舵取りのできる指導者がどれだけ存在しているでしょうか。混迷を続ける経済社会にこそ優れた指導者が不足していることは否めません。

住宅事情などの現実を見ると、物的にも充分に満たされないまま、バブルをピークに縮小経済に向かってしまいました。長期不況とそれに伴う企業のリストラ政策のあおりを受け、一般国民の中でその満たされない欲求が昂じて、詐欺や窃盗に走る犯罪者が増加しているのはまことに残念です。「武士は食わねど高楊枝」「ボロは着てても心は錦」とはいかないものです。人間の物的な欲求や経済的な欲求というものは次から次へと広がり、そのとどまるところを知りません。

心の欲求不満はもっと厄介です。安定を求めて満たされずに不安になり、順調を求めるが故、うまくいかずに焦りとなります。いつも満たされない心持ちでいると何をやってもうまくいきません。

われわれが満たされない「心の空洞」とはいったい何なのでしょうか。

物的な豊かさから心の豊かさへ

江戸後期の禅僧「良寛」は、庶民から食べ物を分け与えてもらう托鉢生活をする乞食僧ながら、何ら卑下しない明るい心を持ち、中国などの古典を論ずれば限りない奥行きと幅を有し、筆を執れば見事な書を残したといいます。

そんな良寛がこのような句を残しています。

「鉄鉢に 明日の米あり 夕涼み」

托鉢をして村の人々から米などを入れてもらう鉄鉢の中には何もない日もあったでしょう。そんな暮らしを一生涯続けた良寛ですが、明日の米があるという安堵感、というよりも生きていく恵みが与えられていることを精一杯に満喫している心境が感じられます。なんとおおらかな心でしょう。何もかもが便利で近代的な生活に慣れてしまっている私達が完全に忘れていた心境です。良寛はこのとき、住まいである山小屋で大の字になって夕涼みを楽しんでいたのかもしれません。

あなただったら、お金が底をつき明日の米しかないような状態になった時、どんな心境になるでしょうか。良寛のような豊かなこころになれるでしょうか?筆者なら、生きる希望を無くし、「もはやこれまでか…」と打ちひしがれてしまうのが落ちです。それが明日の資金繰りにメドがつかなくなるような会社経営のことだとすればどうするでしょうか。

一般に「死ぬほどの大病を患うか、一度会社を潰した人でないと本当の経営はできない」と言われます。大病を経験した人は生きているだけでも有り難い、まして仕事ができるなんてこの上もない幸せであると感じることができるからで、そこに面子や見栄といった精神的な突っ張りや、現在の境遇に対する不満といった心の足かせは全くありません。

動きの鈍い部下がいても「素直な性格がなによりだよ」と長所を認め、どんなにみすぼらしい社屋であっても、「ないよりマシだよ」と考えようではありませんか。

また、上司や会社に不満がある人は「仕事があるだけでもいいじゃない」と心から思いましょう。誰だってよその会社はよく見えるものです。それでも納得できない人は思いきって自らの意思でもって環境を変えればいいのです。

裏返しでも堆肥になれる

「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」

これが良寛辞世の句です。良寛はいったいどんな心境でこの句を読んだのでしょうか。

  • 晩秋に枝を離れたもみじ葉は表になったり裏になったりしながら地に向かう。地上では、真っ赤だったその身体を徐々に褐色に変え、やがて土色となる。あるものは焼かれ、あるものは雨に流されるがその多くは堆肥となり土となる。土は生けとし生きるものの栄養源になり新たな生命体の源となる。その源は地中奥深くまで伸びた根を伝って幹を通り、新たなもみじ葉となる。これが輪廻転生である。
  • 若いもみじの葉っぱになるまでを人間でいう青年期だとすれば、大きさの大小こそあれ、ほとんどのそれは大差なくその姿を枝の上に現す。時期が来て、枝を離れるように社会に出るが、表舞台に出て成功できることもあるし、何をやってもうまくいかない裏の時もあろう。時には風に飛ばされ、嵐に打たれることもある。生まれてから死ぬまでの限られた短い時間での演出だが、もみじ葉が一枚一枚違った舞い方をするように人の一生も千差万別である。人生の最後を表にしたいと願って、裏になってもあきらめずに表を目指して舞いつづければよい。否、表を向けて地に着くことは結果であってさしたる意味はない、落ち方に意味があるのだ。

良寛がこのような思いを込めてこの辞世句を読んだかどうかはわかりません。完全に筆者の想像です。

バブルの反省で経費節減、質素がブームになりましたが、これまではとにかく倹約することがテーマでした。しかし、倹約だけでは閉塞感が充満し、元の豊かな生活に戻りたいという欲求に駆られます。この欲求がいけないのです。物的な豊かさではなく、精神面での豊かさが大切なのです。こころの豊かさとは知的で、実に個性的で芸術性をも帯びた自由なもので、物がなくても得られます。

今の日本経済は重病です。成長経済とまでいかなくても通常の生活ができる健康な状態に戻るまでにあと5年はかかるでしょう。その間に業績は大きく後退し、これまで蓄積した富や財産をそして名誉まで失ってしまうかもしれません。

そこで、どうしてもなくさないようにしたいのが心の豊かさです。

「ああそうか、そう考えればいいのか…」「ここにはこんな価値があったのか、知らなかったなあ…」

といった精神の持ち方次第で、充分に満足を得て幸せを感じることができます。そして、一人でも多くの人が心の豊かさを育むために、その場その場で適切な助言ができる指導者がどうしても必要なのです。それは何千人、何万人という人の上に立つ指導者のことではありません。一つの部や課といった小社会をその場その場で好ましい方向に導くことのできる指導者なのです。相手の心の中にいいものを入れてあげることのできる指導者であって欲しいと思います。

××長という名が付き、人の上に立っているあなたの役割はそれだけ重要なのです。

 

63歳になる野村新監督が弱小阪神タイガースの監督を引き受けたのは、表を見せて散り落ちることができた野球人生への恩返しに、その集大成として自らが落ち葉となり、堆肥となって後生のための栄養源となる決意をしたからではないでしょうか。もしそうならば、その心意気に対して陰ながらエールを送りたいと思います。

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