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バイマンスリーワーズBimonthly Words

胸を濡らさず 争へり

2007年07月

夏場になると、不思議と意識の奥深いところから表れる一句があります。

   朝顔や つるべ取られて もらい水

井戸の水を汲みにいった朝なのでしょうか、朝顔のツルが釣瓶の縄に絡みついています。
そのツルをほどき捨てて水を汲むなんてことはとてもできない、そんな心持ちを表現したものです。
弱きもの、小さな生命に対する思いやりの心を表現した、極め付きの作ではないかと思います。

作者は江戸中期の女流俳人「加賀千代女」。
この句は単なる少女趣味のような作品ではありません。

それは、生きとし生ける物への慈愛の心であり、大自然に対する畏敬の念も感じとれます。
近年叫ばれている自然破壊、地球環境問題は、人間一人ひとりがこのような心を失ったからかも知れません。
この句が私の意識の奥に根強く残っている理由は、自然にやさしく、美しい心根をもった句であることだけでは
ないと思います。

それは、朝顔の姿を見つけても過去の自分はそうはできなかった”自責の念”と、ならば今後はそんな思いやりが
尽くせるだろうか…という、未来の自分に対する”不安感”があるからでしょう。
たった十七文字の中に、人の心をゆさぶる力があることを強く感じる一句です。
加賀千代女の作品が、少女趣味ではないことが明らかになる句をもう一つ。

   来てみれば 森には森の 暑さかな

本業がうまくいかなくなると、他の事業の方が儲かるのではないか、という気持ちになりがちです。
また、苦しい立場におかれた時など、今の役割を捨てて逃げ出したくなることもあります。
しかし、今やっていることから逃げたところで何ができるというのでしょう。今よりは、ましだとしても、
そうは簡単にいくものではありません。

この句は、さぞ涼しかろうと思って森に来てみたら、そこにはそこの暑さがあった…。
人生とはそんなものだ、と教えてくれています。

今朝、会社へ行きたくないと思っている人へ

冒頭から日本独特の文化にして”最短の文学”とされる「俳句」を紹介したのには理由があります。
それは、ケータイやインターネットを利用して俳句の世界に踏み込む人が増えているのです。

たとえば、カメラ付き携帯電話を使った「写真俳句」が静かなブームです。
それは、町並みや山川草木をケータイで写真に収め、一句ひねって友人に送る、というものです。

作家の森村誠一さんが、ホームページ上で作品を展示されていますのでご紹介しておきます。
     ⇒森村誠一さんの「写真俳句館」 http://www.morimuraseiichi.com/

私の場合、「朝顔や…」くらいは知っていましたが、俳句は全くの素人。
ところが、「”黛まどか”のメールマガジン『俳句でエール!』」の存在をNHKのニュースで
知ってから俳句にふれる機会が増えてきました。平日の毎朝8時に送られてくる内容は、自作もしくは
有名句が一日一句紹介され、250字の解説文が添えてあるのです。

女性らしく、やさしい口調で語りかけていますが、発信されてくる言葉の奥には、男性・女性を超越した
人間としての強さ、凛とした生き様が漂っています。

そして何よりも感心したのは、黛さんの動機でした。
いじめられている子供や、つらい思いを抱えている人たちを少しでも俳句の力で元気づけられないか。
そんな、やむにやまれぬ思いから十七音の応援歌を贈り始めた、というのです。

今朝学校へ行きたくない、会社へ行きたくないと思っている人へ。 私が一番辛かった時、そして今も、
いつも心の傍らに置いている俳句があります。口ずさんでいるとだんだん勇気が湧いてきます。

そして私を導き、明日へと背中を押してくれます。ギブアップしそうになった時、私を励まし、慰め、
支えてくれた俳句を贈ります。今日も良い日にしましょうね! ~黛まどか~ 
    (2006.12.07 配信開始のお知らせより http://madoka575.co.jp/mm/ )

プロとはいえ一日一句を選び出し、その意味の解説はもちろん、読み手の人を励まし、勇気を与える
という思いを込めて250文字に集約させるには、相当のエネルギーが必要です。

しかし、その中には自分の得意分野を活かして、何か他人様のお役に立てないものだろうか、
という “使命感”のようなものを感じるのです。

"誇り"と"プライド"は違う

昨年12月の「俳句でエール!」の創刊号では、師である吉田鴻司さんの句が紹介されています。
それは、「第一号はこれしかない…。」そんな黛さんの思いが込められているようでした。

   白鳥の 胸を濡らさず 争へり

「争っている時でさえ、白鳥は決して胸を汚しません。白鳥が白鳥たる証の純白の胸。
その気高い姿は、どんな時にも決して相手の土俵に立って醜い争いをしてはいけない、決して
“誇り”を失ってはいけないと私たちに教えてくれます。生きていくには時には争わなくてはならない
こともありますが、”胸を濡らさず”という覚悟さえあれば、自分をおとしめることもなく、
また何一つ失うものはないのです。」

冬の句なのですが、黛さんのこの解説が妙に私の心の中に残っています。
ここでいう”誇り”の意味は”プライド”ではありません。
“プライド”の持つ意味には、自尊心に近いものを感じます。

ところが”誇り”には、自分が尊いという感情は少なく、自分が取り組んでいる”仕事”や与えられた
“役割”、そして自分の選んだ”道”そのものが尊い。そんな精神が込められているように思います。
添加物を一切使わず、小豆・もち米などの原材料から自社生産にこだわり、体がよろこぶ”おいしい”を
追及する、京都・仙太郎の和菓子。その御当主のお言葉。

「私達が添加物を排除し始めた20年ほど前のある時”一休宗純”が描いた”雨中漁舟図”
を見た。色を用いず、墨だけで描く。全部描ききらずに余白を残す”水墨画”。その中にこそ、描き手と観者との
間で一幅の絵を完成させる極意が存在する。”主客一体”…。たかが和菓子屋であるが、この墨絵に勇気を貰って
色粉(着色料)をもつかう事をやめ始めたのである。」

もっともご自慢の代表作、”ご存じ最中”の食し方の解説文にはこう書かれている。
「おいしく召し上がっていただく方法はただ一つ。お腹を空かせて、渋茶とともに召し上がれ。」
戦後、色鮮やかにして見た目の美しい洋菓子が表舞台に登場、和菓子は地味な脇役に廻ってしまった。

危機感を抱いた業界の多くが見て美しい、感じが良い、という路線に進んだ。その結果、派手な着色料、添加物が
いっぱいの和菓子を作ってしまった。それは本来の味や機能でなく、洋菓子の存在を意識した路線ではなかったか…。
「和菓子とは感性よりも食品としての機能(栄養・体を養う)の正しさを第一義とすべきである。」
この仙太郎の経営方針は、顧客に対し”おもねる””へつらう”ことのない”誇り”に溢れている。

"いただきます"は"命、いただきます"

学校給食の現場ではこんな問題が起こっています。
母親が担任の先生に対し、「私の家は給食費をきちんと払っているので、子供に”いただきます”と言わせるのは
おかしい。だからやめさせて欲しい」というクレームがあるのです。
なんと情けない話でしょう…。

純粋な子供たちは、こんな考え方をする母親の教育を受けて育つのでしょうか。
しかし、若いお母さん方を責めることはできません。それは、先生と保護者との信頼関係が希薄であることに加え、
母親を含めた大人達への教育ができていないことが問題なのです。

教師の中に保護者からの反発を恐れて開き直っている先生もいますが、それは教育者として失格。
この母親のような発言には、教師としての”誇り”をもって断固たる姿勢を示してもらいたいのです。
経営の世界も同じこと。 どれほど誠心誠意に仕事をしても、周りの人から誤解され、誹謗、
中傷をされることがあります。

そんな時は、悔しくて、悔しくて眠れないでしょう。
情けなくて、そんな自分がバカらしくて、この仕事を放り出したい気持ちになることもあるでしょう。
しかし、そんな時こそ相手の思うツボに、はまってはなりません。
白鳥は、胸を濡らさずして、争うのです。

なかなか成果が出なくても、誰になんと言われようとも、ここであきらめることなく、”誇り”をもって
続けていきましょう。
この”誇り”さえ失わなければ、自分をおとしめることもなく、何一つ失うものはありません。

私は、コンサルタントの仕事を通じて学んだことが少しでも経営者の悩みの解消と勇気付けにならないか…、
との思いから平成3年からバイマンスリー・ワーズを送り始め、今回で100号になりました。
これだけ長くやっているのに、いまだに拙い文章で恥ずかしくも思っています。

しかし、今も始めた頃の動機は変わりませんし、毎回、毎回、どう表現すればこの思いが伝わるだろうかと
真剣に考えて参りました。 これからも、少しでもお役に立てるメッセージを送り続けたいと思います。

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