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バイマンスリーワーズBimonthly Words

先ず隗より始めよ

2002年05月

「うちの社員はレベルが低い!」と人材不足を嘆く中小企業の経営者が後を絶ちません。

もちろんバブル期に経験した社員数の不足ではなく、技能や意識のレベル、
企業によっては社会人としての常識不足といった質的な問題です。

筆者は中小企業の現場から、その社員のレベルは次のように分かれていると感じています。

さて、あなたの会社はどのレベルにあるでしょうか。

第一段階は総じて社会人としての常識に乏しく、専門技能を持っている者も
極めて少ないというレベルです。いわば素人集団、烏合の衆という状態。

常識といってもその範囲は広く、どこまでが常識があり、そうでないのか判定は
難しいところです。筆者も常識が分かっているかと問われても自信がありません。
人に迷惑をかけない、不快感を与えないといったことでしょうか。

第二段階になると、常識はそれなりに備えているが専門技能をもっているのが一部の人に限られ、
全社的には合格点に達しないレベル。

この段階では業務品質が一定に保てないのでミスやクレームが多発し、業績もあがりません。

第三段階は一般常識や専門技能は合格だが、意識が低いというレベル。

大手企業で陥りやすい段階です。
意識の低さとは雇われ意識が強く、責任をとることを避けて自分で判断しない傾向にあります。
このレベルになると大きなミスは起こりませんが、組織は硬直化します。

第四段階が常識、専門技能、意識が総じて合格レベルにある状態。

このレベルになれば通常は業績に反映されるはずですが、そうでなければ選択している戦略に
問題があるのでしょう。これはトップの問題です。
環境が変わる際に内部から崩壊していきますので、気を緩めることはできません。

さていかがでしょう、第一段階は論外として第二段階は指導力の問題であり、
第三段階は判断力の問題といえないでしょうか。

こう考えると人材不足に悩む中小企業の問題は、指導できる人材、適切な判断のできる人材がいない、
もしくは、育たないということに集約されるようです。

私を優遇することから始めなさい

戦国時代の中国で最も弱小な国であった「燕」は、南の大国「斉」との戦いに
敗れて滅亡寸前でした。そんな燕に名君「昭王」が即位します。

なんとか国力を回復させたいと考えた昭王はすぐに有能な人材を求めました。
昭王は学者の郭隗をたずね有能な人材を得る方法を問うたのです。
郭隗はたとえ話を引き合いにして王を説きます。

「昔、ある国王が一日に千里を走る名馬を求めていたが何年も買うことができずにいました。
ある時、一人の家臣が『私が買ってきます』と名乗り出たので買いに行かせます。

まもなくその家臣は名馬を見つけますが、すでに死んでいました。

ところが何を思ったか、その家臣は五百金を出してその死んだ馬を求めて帰ってきたのです。

王は『死んだ馬に金を払う奴がいるか!』と怒りました。

そこで家臣はこう言います。

『死んだ馬でさえ五百金もの大金を払うのです。これが生きた馬ならいくら払うのか。
世間の人は王が名馬のためには金に糸目をつけないことを知り、
向こうから名馬を連れてくるでしょう。』

その後、一年もしないうちに千里を走る名馬が三頭もやってきたのです。」

ここで郭隗の口から出るのが次の有名な言葉です。

「今、もし王が本心から有能な人材を招きたいのなら、
最初にこの私を優遇することから始めなさい(先ず隗より始めよ)。
ならば世間の有能な人材は、あの郭隗でさえ抜擢されるのだから、
自分ならもっと優遇されるはずだ。そう考えて天下の有能な士が、
千里の道をも遠しとせずに集まるでしょう。」

なるほど… もっともな話です。

ところが、私達がこの“私を優遇することから始めなさい”という意味の
「隗より始めよ」を単純に受け、今の社員を優遇することで
果たしてうまくいくでしょうか。私は失敗するように思えてなりません。

かえって現状のままで良しとする、たるんだ組織になるでしょう。

また、千里を走る名馬でも乗りこなせなければ無用の長物であるのと同様、
有能な人材が入っても豚に真珠、猫に小判になります。

中小企業の経営者を悩ませる人の問題、つまり指導ができる人材、
適切な判断のできる人材を獲得し、育てていくにはどうすればいいのでしょうか。

「もっとも手近なこと」は自分のこと

中小企業の経営者はたいてい「儲かったらボーナスを弾むから頑張ってくれ!」と
社員に向かって公言します。このようなことを言う経営者は本当にそう思っています。

その心に嘘や偽りはありません。

ところが、いつまでたってもそうならないのです。
何故でしょうか?こう言われた社員はどのように感ずるでしょうか。

「儲かったらボーナスを弾む …」という考え方は、突き詰めると
“馬に人参”方式の常套手段にすぎません。

社員からすれば、この程度の方針では経営者の覚悟が見えてこないのです。
「会社が大事、己も大事、君達社員はその道具」としか映らないわけです。
ですから社員も腹の底から本気では取り組みません。

求むるものを得るには、まず求める側が率先して犠牲を払わなければならないのです。

これは難しいことではありません。優秀な人材のために己の報酬を抑え、
そこで得られた原資をまわすという覚悟をすればいいわけです。

これはコスト削減の一環として自らの報酬を下げるというパフォーマンスではなく、
己の報酬を返上してでも優秀な人材が欲しいという腹決めを伝える意味があるのです。

儲かったら分け前を渡す、という考え方にはリスクがなく、人材に対する腹決めが感じられません。

じつは“私を優遇することから始めなさい”と郭隗が言った「先ず隗より始めよ」は、
その後“遠大なこともまず手近なことから始めなさい”という意味で使われるようになりました。

これならば分かるような気がします。

つまり、「手近なことから始めなさい」の“手近なこと”とは“自分が犠牲を払うこと”だと
考えればいいわけです。

“やらされ意識”をどうやって払拭するか

「隗より始めよ」にはもう一つの意味があります。

それは「何事によらず、まず言い出した人からおやりなさい」ということです。

多くの経営者は“自分の思うような人材が育たない”という悩みをもっているでしょう。

ところがこの“自分の思うような”という思いこそが「うちの社員はレベルが低い!」という
嘆きの原因なのです。自分の願望を実現するのに、他人にやらせて思い通りになるでしょうか。

自力で作品を完成させる芸術家でも思うような作品ができないのに、
他人にまかせて何ができるでしょう。

部下にしてみれば、指示を受けてプロセス段階では任されても、結果でチェックされる訳ですから、
仕事の始終を押さえられていることになります。

仕事のツボを知らない若い社員はこれでいいでしょう。

しかし、指導する立場にある幹部社員が、判断から最終結果まで誰かにチェックされたら、
充実感や責任感は湧いてきません。自分が考え出したことでもないし、
最終的な評価も自分でやっていないのです。“やらされ意識”はこのようにして生まれてきます。

「うちの会社では言い出した者がやらなきゃならないので、言われたことだけやればいい」
といった内容のことを社員が口にする企業もありますが、これは最悪です。

じつは自分で判断し、実行させることが“何事によらず、まず言い出した人からおやりなさい”
ということの本当の意味なのです。

“教える”ことと“育てる”ことは根本が違います。

“教える”とは教える側の考え方や知識を相手に伝えることが目的です。
ですから教える側の思いをうまく伝えることができればいいのです。

一方、“育てる”ことの目的は相手が自立することにあるわけです。
依存心を捨て、自分の足でしっかと立てるような指導が必要になるのです。
構いすぎるといけません。

そのためには、育てる側のあなたが“自分の思うような人材を…”というこだわりを捨てましょう。
自立していくのは彼であって、あなたではないのです。

自分で判断をしなければリーダーの力は高まりません。
“隗より始めよ”の隗を“判断させること”と理解してもいいでしょう。
簡単な判断から訓練をさせ、ここで口を挟みたくなるが、ぐっと我慢で見守る。
そして失敗させる。失敗した時にそれを生きた教材として指導して後始末をきちんとさせる。

「そんな危険な経営ができるか!」と感じるでしょうが、思い出してください。
あなたもこれまでたくさんの失敗をし、自分で解決してきたではないですか。

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