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バイマンスリーワーズBimonthly Words

幸せを売ろう

2004年01月

新年明けましておめでとうございます。
予想もつかないような大きな事件が起こるのではないかと心配される年が明けました。

アメリカを中心とする勢力に押され、イラクへ自衛隊を派遣せざるを得なくなった日本。二人の日本人外交官が殺害されたことは、戦地だけでなく日本国内でもいつどこでテロが発生するか分からないことを意味しており、真に物騒な国になってしまいました。
物騒なことはテロに関する問題だけでなく、国内のあちこちでも起こっています。
強盗、傷害などの犯罪件数は増加の一途で、子が親を、親が子を殺(あや)めるという悲惨な事件が珍しいことではなくなりました。弱者である幼児への虐待や一人暮らしの老人を狙った犯罪も日常茶飯事に起こっています。

年間に一万人以上もの人が亡くなっていた交通事故が昨年は七千人程度まで下がり、やっと交通戦争が下火になってきたかと思っていたら、残忍な事件が増えているのは残念でなりません。
もちろん、国際化による外国人犯罪が増えているので、一概に日本人の行状を責めるわけにはいきません。このような事態に対して政府や民間のボランティア団体も様々な防犯活動をしていますが、根本解決にはほど遠いものがあります。

凶悪な犯罪がことのほか少なく平和で暮らしやすい国、日本。この誇りは過去のものになったのでしょうか。日本人のこころの中はどうなってしまったのでしょう…。
敗戦国日本が戦争の傷跡から立ち直るために目指した目標は何だったのか。それは池田内閣の所得倍増論に代表されるように、経済的・物質的な富を求めることでした。その先に“幸せがある”と信じ込んでいたのです。そして、その目標は20世紀後半におおむね達成されたように思われます。

ところが、経済的な富は得られたかもしれませんが、逆に人々のこころの中は豊かさを失い、荒廃傾向にあるように思えてなりません。
私たちは経済的な富だけでは幸せになれないことに気づき始めたのです。

幸せの条件とは

それでは“幸せ”とはいったい何なのでしょうか?

現代社会において幸せを獲得するには、最低限の「経済力」つまりお金が必要でしょう。「お金はたくさんあればあるほど幸せです」と考えるのが普通でしょうが、その蓄え方・使い方しだいで、幸せにも不幸にもなるのがお金の怖いところです。

あり余るほどの財産を持っていた人がいました。ところが、その財産がいつ盗まれるか、命まで狙われるのではないか…と心配する毎日が続いて病気になってしまいます。ある日、人に薦められてすべての財産を寄付したら、一瞬にして気が楽になって病気が治り、幸せに過ごしたという話もあります。

このお金持ちは財産よりも、病気を治すことに価値をおいたとたんに幸せになったのです。

やはりこの話のように、幸せを感じるために欠かせないことは、まず「健康」でしょう。

どれほど経済的に裕福であっても、病に苦しむ毎日が続けば生きる気力すら湧いてきません。人類は有史以来、医療技術の進歩に努め、近代になってそれは飛躍的な進歩を遂げました。高度な医療を享受する日本人は世界一の長寿となったのです。

ところが皮肉なことに病に苦しむ人はいっこうに減らないのです。

その原因としては、美食によるカロリー過多や、クスリ漬けの医療行政問題もありますが、私たちが知らないうちに健康を害されているという隠された問題があります。

今の日本で私たちが摂取する食品の60%は輸入に頼っています。じつは海外から輸入される食品には、農薬や防腐剤が想像以上にかけられているのです。あなたは子供や孫にそんな危険なものを食べさせられますか? ガンはもちろん、花粉症やアトピーといった現代病は、食料輸入に絡む政治の問題と、供給する企業側の勉強不足から起こった問題ではないでしょうか。この問題を解決しない限り、私たちの健康は冒され続け、病人は減らないのです。

私は健康問題についてとやかく言うつもりはありません。今の時代は、食品を通じて健康な人の身体が害されていく現実を、企業や消費者がもっと研究する必要性を訴えているのです。

もう一つ幸せの条件を考えるなら「こころの健康」が欠かせません。

マスコミ情報は歪曲され、真相は伝えられていません。多くの若者は活字から離れ、視聴率しか頭にない放送局のバラエティ番組に冒され、テレビゲームに没頭します。相手を殺してリセットボタンで簡単に生き返るというテレビゲームは、弱者に対する虐待心をあおり、命に対する尊厳の心を奪います。

売れるなら何でも売らんかな、という企業姿勢がこころの健康を崩しているのです。

三福論を学ぶ

親しくお付き合いしている社長から「幸田露伴の『努力論』はいいですよ」と教えていただきました。明治時代に才能を発揮した幸田露伴は古典派の小説家で、露伴の生き様を語っているのがこの『努力論』。その内容を渡部昇一氏が分かりやすく解説した「幸田露伴『努力論』を読む ~運が味方につく人つかない人~(三笠書房)」を薦めてくださったのです。

さっそく読んでみましたが、それはそれは感銘を受ける内容でした。

その一部を紹介すると、露伴は世の人々を幸福な人と、不幸な人に分けて観察すれば、そこには微妙でおもしろい事情があることがわかってくるといいます。

まず第一に、幸福に遭える人とは「惜福」の工夫ができる人です。

惜福とは“福を惜(お)しむ”ことで、福を使い果たさないことをいう。有り金を使い果たすのは惜福の智恵がない証拠で、正当なこと以外には無駄遣いをしないのが惜福である。徳川家康は豊臣秀吉よりも器量において大きく劣っていたかもしれないが、この惜福の工夫において数段まさっていたため、徳川三百年の礎を築くことができたといいます。

次の段階にあるのが「分福」の工夫ができる人です。分福とは自分の得た福を他人に分け与えること。たとえば自分が大きなスイカを手に入れたとき、全部食べ尽くさず、いくらかを残すことが惜福で、分福は他人にも分け与えて一緒にその味を楽しむことです。家康は「惜福」の工夫では秀吉に勝っていたが「分福」の工夫では遠く及ばなかった。秀吉は功績ある臣下にじつに気持ちよく大録を与えた。これほど気持ちよく恩恵を振る舞われると、家臣たる者だれでも秀吉のために命を賭けるのは当然で、秀吉が早々と天下を統一できたのはこのためであるといわれています。

そして最高位にあるのが「植福」のできる人。植福とは、自分の力・情・智をもって、人の世に幸福をもたらす物質・清趣・知識を提供することです。

ここにリンゴの木が一本あるとします。この木を大切に管理し長持ちさせるのが惜福で、立派に育ったリンゴを独り占めにしないで他人にも分け与えるのが分福。そして、リンゴの種を蒔いて将来に実のなる成木に育て、害虫を取り除き、薬や栄養を与えて蘇生させることが植福なのです。

スタートは些細なことでも、一株の木から数十個、数百個の実がなります。幸いにして人類は、とくに農耕民族の日本人は、数千年前の祖先から植福の精神に富み、植福の作業に努めてこられたおかげで時代を追うごとに幸福が増進したのです。なんと素晴らしいことでしょう。

現代人がこの「三福論」を知ることは、こころの中を健康にする栄養食品を得たようなものです。

植福の実践を求めて

幸せのためには「健康なこころ」がもっとも重要なことであることが分かってきました。では、具体的にどうしていけばいいのでしょうか。

まず目の前にある物質や事象に対して、感謝のこころで向かいます。これは自分で自分の幸せを感じるための惜福の智恵です。たとえば、無駄遣いをしない、設備や機械を大切にする、自分に与えられた仕事を全うする、己の能力を磨く、暴飲暴食をしない。これが惜福の実践です。きわめて基本的で簡単なことのようですが、これが出来ていない人のこころは貧しく、次の段階へは行けません。

惜福の活動によって個人の幸せを感じることができますが、周囲への影響力が弱いので、ともすれば現状に安住する地味な活動に終わってしまいます。

そこで分福の行動が必要になります。

具体的には、利益を独り占めにしない、市場を独占しない、権限を委譲する、部下を育てる、身心を鍛えてフルに使う、といった行動です。この分福の行動は、自分だけでなく自分以外の周りの人に対して、幸せを感じられるお手伝いをすることになります。

ところが分福のレベルでは、周辺の限られた人にしか影響させることができません。

そこでより多くの人に、より遠い将来の人々に幸せが与えられるような高いレベルを求める人には、植福のこころが必要になります。経営者にはこの植福のこころが求められます。

たとえば、将来性のある事業に投資をする、新商品開発に注力する、後継者を育てる、多くの人に夢を与える、といったことになるでしょう。

そしてこんな時代だからこそお客様の身体や精神に悪い影響のあるものは売らないことが何よりです。住む人の安全と健康を考え抜かれた住宅、添加物を使わず自然素材で作った食品、心からの愛情をもって接するサービス、そういうものを売っていこうではありませんか。

一人でも多くの人が幸福に出遭える一年となりますよう祈っております。

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